竹久夢二 『夢二日記』

夢二日記〈1(明治40年~大正4年)〉夢二日記〈1(明治40年~大正4年)〉
(1987/05)
竹久 夢二

商品詳細を見る


竹久夢二の『夢二日記』読んだ。

ひどい!!夢二は酷い男!!!

竹久夢二が記した明治40年から昭和9年までの日記である。
夢二の没後、有島生馬(有島武郎の弟)の手で保管された
大量のノートやスケッチブックを編纂したもので、
幸運にも関東大震災による消失を免れたが、亡失した部分も少なくないようだ。

夢二のあの、抒情的な美人画を知らぬ人はいないだろう。
そのモデルとなった数多の美しい女たちと、夢二は恋を重ねた。

私はあまりに女性の美を知りすぎる、また女性を愛し過ぎる。
あまり愛し過ぎるから妻としてみてゐることが出来ないのだ。
愛し過ぎるから憎いのだ。
夫婦はもつと冷やかに静かに愛すべきものなのであつた。
夫婦が純な、熱烈な愛を持ち合ふといふことは、社会生存のために害になるものだ。さめよ、さめよ、そしておちつきはらつてゐろ。(後略)

大正4年4月6日



夢二は日記の中で自らこう記している。
画家・詩人としては優れていたかもしれないが、
夢二のあまりに女性に気が多い性質は、到底良い夫、父親とは言い難い。
それは本人も自覚していたような文章である。

これを書いたのは夢二が笠井彦乃と結ばれる直前、大正4年4月6日の事だ。
引用した4月6日付の日記の後半は、
断ち切れない彦乃への思慕と思われる煩悶が綴られている。
��当時夢二32歳、彦乃は20歳で、彦乃の父親は娘と夢二を引き離そうとしていた)

妻のたまきとは明治40年に入籍し、その2年後に協議離婚した後も
離婚の翌年からまた同棲したり一緒に旅行に行ったりしていて、
離婚後にも次男・三男を設けている。

次男の不二彦、三男の草一は非常に不憫で、
同居したり別居したりを繰り返す両親に振り回されて、
その都度東京や京都の家を転々とする。
三男の草一に至っては、置いていかれたり預けられたりした挙句、
最終的に養子に出されている。

ただ、夢二は次男のちこ(不二彦)を非常に可愛がっていたようで
��次男だけ可愛がったのか、草一はたまきが離さなかったのかはわからない
ただ、たまきは一度草一を放り出して出て行ったりしているので微妙)
ちことの会話が日記に頻繁に出てくるし、
ちこが寝込んでいる時などは心配で何も手に着かない様子である。

京都で同棲を始めた夢二と彦乃の元へ呼び寄せられた次男のちこ
��当時6歳?)は、父・夢二と、彦乃の三人で暮らし始める。
母親と離れ、父の新しい恋人との三人の暮らしは
ちこにとってどうだったのか。

まだ床の中にゐた。うとうとしてゐると、ちこは床の中で何か言つてゐる。「ねえちやんも、母ちやんもパヽもみんないつしよにゐられるやうに、どうぞ神さま、助けて下さい」お祈りをしてゐるのであつた。ながくおなし文句をくりかへして長く言つてゐた。食卓で今朝お祈りをしてゐたね。ときくと
パヽどうして知つた。
神さまからきいた。
神さま言つたの。
いゝや。
神様が言わないけれどさう思はせたんだろう。
さうだ、ちやんとわかる。

大正7年10月26日


※ねえちゃん=彦乃、母ちゃん=たまき、パパ=夢二

ちこが彦乃の病を心配し、お祈りをしているところを見ると、
三人での暮らしはうまくいっていたように思う。
京都での三人暮らしは2年ほど続いたが、
彦乃は病(結核か?)で入院し、その後父親によって無理矢理東京へ連れ戻され、
その2年後には25歳の若さでこの世を去っている。

Wikipediaをはじめ、夢二の女性遍歴を綴った文章には
「夢二の最愛の女・彦乃」という表現がしばしば見られる。
しかし、夢二は彦乃が東京に戻されて療養中の大正8年に出会った
モデルのかねよ(お葉)と、彦乃が病没した大正9年、
彦乃の訃報のわずか半年後にお葉と所帯を持っている。(入籍はない)

画家である夢二には創作のインスピレーションを与えてくれるミューズが
必要であり、常に彼自身がミューズに烈しい恋心を
抱いている必要があったのだろうか。

彼を愛し、彼に愛された数多の女性たちは幸せだったのだろうか。
そう思うと、あの抒情的で美しい美人画の女性たちもどこか寂しげに見える。

0 コメント:

コメントを投稿